『出没! 私立らりほう学園!!』

第4回

ゲームマスター:田中ざくれろ

★★★
 水面がうねる。
 風の輪が広がる。
 『集合無意識』という概念がある。
 人人の心はまるで一面の海の様に無意識下でつながって広がっている。そこに浮かぶ数多の島の如く各個人の意識が個性として物質界の表面に現れているという概念だ。つまり無意識下では皆、差異なく一つの海として集合しているという事になる。我我は海に浮かぶ島なのだ。
 『インフルエンサー』。
 影響させるもの、という意味を持つこの言葉は、単なるファッションリーダーや指導者、思想者ではなく、この集合無意識の海に思想や流行、アイデア等の情報を発信して各島に届ける力を持つ者達にこそふさわしいのかもしれない。風が吹いて波が立つのではなく、まず各個性から波が始まって、そのうねる波紋に押されて風が生じて集合無意識の海をあまねく同心円で伝播し、感動を発生させていく、その様に。
 シンクロニシティ。思い込みでなければ、その伝搬した情報がまるでバラバラに、それでいて一斉に影響を与えて現実を広く動かすのはこの概念の効果だと言えるだろう。
 『オトギイズム王国』から来た冒険者達は『亜里音オク』生徒会長とマザーAI『学天即』に、異邦人こそがインフルエンサーなのだと言われた。
 その主観、動向が超弩級硬式飛行船『スカイホエール』内の『私立羅李朋学園』の五万人の学生達に人知れず伝わっていくのだと。与えらえたアイデアだとは無自覚のままに。
 まさしく一挙一投足、一つの思考が五万人に一斉に方向性を与えて行動させる、見えない要なのだ。
 自分の考えが大勢に影響を及ぼす。生産的だろうと破滅的だろうと。
 インフルエンサー。自分達が世界の中心だという事実は果たして快悦か。それとも恐怖か。

★★★
 飛行船内の羅李朋学園。
 学園刑務所。
 砂色の刑務所はまるでガウディのデザインの、四百四十mもそびえる巨大なアリ塚の様だった。
 表面上は風化して脆そうに見えるが実はそうではない。堅牢な装甲と防犯装備に守られた、世間を無言で威圧する要塞だ。
 ここでも冒険者達の周りには野次馬が集まり、押し合いへし合いの騒ぎになる。
 しかし、それも玄関までの事。学園警察官の護衛達が野次馬集団とビリー・クェンデス(PC0096)と姫柳未来(PC0023)を引きはがし、二人のみがこの刑務所へ入場する事を許された。
 照明に照らされた刑務所内はすっかり静かで何処か寂しい。
 足音がリノリウム張りの床に反響する中を刑務官に先導されて面会室へと進む。
 ビリーと未来はここに収監されているはずの『鷺洲数雄』と『五月雨いのり』に会いに来た。
 刑務所の面会というものは面会する側に色色と規則があって面倒なものなのだが、単なる知り合い程度の仲であるビリーと未来が許されたのは、二人がこの羅李朋学園にとって重要なゲストなのだからだろう。一度に二人の囚人と面会出来るというのも特例のはずだ。
 厚い透明アクリル板のあちら側とこちら側に仕切られた二人ずつはマイクとスピーカーを介して、お互いを見、会話を交わす事が許された。
「……ここにも学天即の『耳』があるんやろうな」
 高い椅子に座ったビリーが呟くのは、ここにも監視カメラや集音マイクがあるだろうから。羅李朋学園ではほぼ全ての場所が学天即の耳目に把握、管理されている。
「なあ、この人達相手に差し入れしたらあかんの?」
 ビリーはここに立ち会っている刑務官に訊いたが、仏頂面の彼は「飲食物は原則禁止だ」とだけ言葉を返す。
 これではせっかくの『打ち出の小槌F&D専用』も出る幕がない。
「前の宴会の時にも見せたそれだが……」数雄がそのビリーの握っている魔法の小槌に興味を向ける。「それは無限に食べ物が湧き続けるのか……?」
「試してみた事ないけど、際限なく出せるんやないかな」
「この世界に新しく食べ物が湧き続ける! そんな事は質量保存、エネルギー保存の法則に違反する! 論理的ではない! それともそれが食べ物を出す度、世界の何処かで等価の質量やエネルギーが減っているのか!? エントロピーはどうなっているんだ!?」
「そな、難しい事言われてもボク解らんもん。気にした事ないし」
「ねえ、それさ……」髪を掻きむしる数雄の隣に座るいのりも、ビリーの小槌に興味を持った様だ。「もしかして、お金とか材料とかなくてもこの学園生徒全員に配れるほど、一度にドバーッと出せるわけ? 五万人が好きな物を好きなだけ。三食全部。スイーツまで」
 うーん、とビリーは唸る。「やった事ないけど、出来るんやないかな。魔法やし」
「ヤバい奴じゃん! それで学園の食糧問題、一気に解決じゃん!」
 色黒女子高生が無邪気に喜びを叫ぶのを聞いて、またビリーは唸ってしまった。
 確かにそうかもしれない。
 しかし五万人の学生全ての為に、小槌を振り続ける自分の姿を想像してちょっと気分がげんなりした。
 五万人! しかも三食! 一日中、ひと時も休まずに小槌を振り続けなければならないだろう! 五万人全員に朝食の提供が終わるまでに昼飯の時間が来てしまうのではないか!? そして、それが終わるまでにおやつ! 夕食も! それが毎日続くのだ!
「ボクの自由時間がなくなってまう! ボクは小槌振りマッシーンやないんやで!」
 思わずビリーは叫んでしまった。
 こほん、と刑務官が空咳を打ち、ビリーはとりあえず黙る事にする。
 福の神見習いに代わるように未来はアクリル板に顔を近づけ、いのりの顔を見つめる。「いのり、絶対に出してあげるからね」透明の板に両掌をつけると、いのりもそれに手を重ねてきた。温かみを感じる気がする。「わたし達『ずっ友』だよ」
 そして未来は数雄へ視線を変える。
「数雄の知ってる事を教えて。例えば数雄は何故、捕まったのかとか」
「筆談は禁止だぞ」
 先回りしたかの様に大きな声をかける刑務官に、未来は彼から見えない角度で舌を出す。
「頭の中で思い浮かべるだけでいいから」
 未来は小声で言いつつ、精神感応、テレパシーを使って数雄の表層意識を探った。
「……何を言ってるんだ」
 とまどう数雄の意識に先ほど投げかけた質問の答が浮かんだのを、未来の超能力は把握した。
 数雄の視点での、彼のPC画面に浮かんだ計算アプリでの試算結果。グラフが示したあり得ない数値。
 視覚映像に足りないものが彼の声と日本語の文字で補われる。
(この飛行船の総ヘリウム量では現実には浮かぶ事が出来ない。それなのに飛んでいる。可能性として燃素(フロギストン)。負の質量をもつ仮想原子。その秘密を知った者は学園に消される。強制的な緊急逮捕。全てのコンピュータは学園の監視下にある)
「フロギストン……」未来は小声で呟く。「ここから出る為にはどうしたらいいと思う?」
 未来のその声に数雄の意識が変化する。
 ガッチリ閉まった鉄の檻のイメージ。
(ここから出る事は出来ない。多分、一生出られない。禁固。フロギストンの秘密に気づいた者は一生監獄か強制退学だ。全ては陰謀だ)
 その言葉を哀しく受け止める未来。出来る事ならばテレポートを使って今すぐにも二人を助け出したかった。しかし、それでは彼らを正式に『脱獄犯』にしてしまう。二人を逃がしたい気持ちをぐっと抑える。
「ねえねえ。何してんの。いやらしみなの考えてるんじゃないでしょーね☆」
 話しかけてきたいのりの声に、数雄の意識が反射的に変化した。
 数雄の記憶。
 彼の主観でいのりが羅李朋学園の制服を着て(あっはーん)なポーズで(うっふーん)な事を。ベッドの上。しわくちゃのシーツで(あんあん)で露骨に(いやーん)な数雄といのりがよりによって(あふぅうん)のコスチュームで(きゅんきゅん)と指や脚を組んずほぐれつ。あと立ったまま(やんやん)とか。
 脳内に流れ込んできたそのあまりにもHすぎる十八歳未満禁止のビジュアルに、未来の顔は火を吹いた。一瞬で炊きあがった妄念で彼女のテレパシーは桃色に染まって一時作業不能になった。
「ちょっと待った!」未来の様子を見ていた数雄が叫んだ。「もしかして私の思考を読んでいるのか!? そうか、やっぱり思考盗聴装置は存在してるのか……って、そうじゃない! 私のプライベートな部分を読んでいるのか!? 言っておくが四六時中、こんな事ばかり考えてるわけでは……!」
「何や。未来さん、すっかり出来上がってしもたやないか」
 スカートの裾を掴み、顔を真っ赤にしたままでうつむく未来の右隣で、ビリーは何にも気づけず、ただ彼女を見つめる。と、視線をアクリル板越しの数雄に向け「とにかく数雄さん。詳しい事はちょっと言えんけど学園はオク会長の支配下でどうやらヤバい方向に行ってるみたいなんや。とにかく目的が手段を正当化するっちゅー理屈や。ボク、そうゆうのは好きやないけど、現状、そうせざるを得ない事情もあるみたいなんや……マインドコントロールとか……」最後の言葉は小声になる。「あんさん、どないしたらいいと思う?」
「マインドコントロール?」奇麗に拭かれた眼鏡レンズの奥で陰謀論者の眼が輝く。「やはりAIはそういう方法で人間を支配しようとしてるのか」
「宗教の本質とは価値観や。その基準を定める役目を担うのが宗教の法や倫理や。……人工知能の亜里音オク生徒会長と学天即は、価値観が異なる『グスキキ』との『宗教戦争』に勝ったんや。これは何を意味すると思うん?」
「何を意味すると言われても……」数雄はネクタイのないYシャツ姿でとまどった。「宗教は範囲外だしな」
「グスキキの代わりにオク生徒会長の『宗教』がはびこるとゆーコト? マジ卍」
 意外にここで口を挟んだのはいのりだった。
「せやな」ビリーは彼女を肯定した。「グスキキに代わる、新しい宗教による支配が吹き荒れるかもしれん。学園生徒が誰も自覚しない内にな……」
 ちょっとの間、面会室が沈黙に支配される。
 刑務官が壁にかかった時計に眼をやった。
「あ、それからな、数雄さん」ビリーはそろそろ潮時かなと思いながら訊いた。「さっき、未来さんが言ってたフロギストンって何や」

★★★
「ところでフロギストンって何や」
 生徒会舎。
 生徒会長室に集まったオトギイズム王国からの使者達は、基本的に亜里音オク生徒会長と議論を戦わせに集まっていた。
 生徒会長が使う机の上に置かれた大液晶画面に、CGアイドルでもあるオク生徒会長のクリアグリーンのツインテール姿の全身が映っていた。
 会議はしょっぱなからビリーの質問から始まり、それに対してオクの姿はまるでフリーズしたかの様な強張りを見せる。
「フ、フロギス……」
「『フロギストン』は中世ヨーロッパにその存在が考えられた元素です。金属が燃焼すると質量が増加します。それに対して金属に含有されていた元素が燃焼する事により離脱し、その元素は『マイナスの質量』を持っているので燃焼した物質が質量増加すると考えられていました。その元素が燃素、つまりフロギストンです。水素をフロギストンと同一視する考え方もありましたが、酸素の発見により、フロギストンの存在は現代では否定された形になっています」答に詰まるオクを学天即の機械音声が補う形となった。「それがどうかしましたか」
 実はビリーは刑務所での鷺洲数雄との面会で、彼からフロギストンのとりあえずの知識は得ていた。その名前だけはこの前『性愛研』部長から聞いていた事も思い出していた。
 それでいて、なおかつ敢えて疑問としてオクにぶつけてみたのだ。
 この時点でフロギストンという元素の存在に考えが行きついていたのはビリーだけではなかった。
「どうやら『Ph』はフロギストンを表わす元素記号の様ですわね」
 チャイナドレスのクライン・アルメイス(PC0103)はオクのCG画像に鋭く眼線を配りながら、きっぱりと言い切った。Ph。艦長室で大徳寺轟一艦長の資料から発見した記号だ。
「マイナスの質量を持った元素。それを封入すれば気球はさぞや浮かびやすいでしょうね」
 クラインは既に、フロギストンを作成した工場もしくは魔術的な実験場について、自慢の人脈を使って秘密裏に調査を行っていた。物質を運び込んでいる以上、何らかの痕跡は残るはずであり、その痕跡を辿り、質量マイナスの元素の秘密を解き明かす気でいた。
 それによれば、かろうじての情報ではあるが『魔術研』の母体となった魔術結社が三十年前、つまりこの羅李朋学園を積んだスカイホエールが製造された時点で、フロギストンらしき物を錬金術にて製造、この飛行船の気嚢内に封入した事を把握した。
 これを思うに羅李朋学園の創始者『羅・李朋』は最初からフロギストンを使用する事を前提に、スカイホエールの運用を考えていたのだろう。
 まるで流し眼を送る蛇の様に見つめるクラインの前で固化するオク。
 その様子にアンナ・ラクシミリア(PC0046)は語りだした。
「本当にフロギストンなの。エーテルや天動説の様に昔はあると考えられていた物だから錬金術が通用する世界ではあってもおかしくないものだとは思うけれど、実際に取り出して利用していたなんて……。空気より軽いと考えられていたから浮力を得るにはいいのかもしれないけれど。フロギストンは燃素とも言って、火の原素とも考えられていたわ。それって水素を使うよりもっと危ないんじゃないかしら」
 アンナの声にこの生徒会長室にいるゲスト達はこの巨大飛行船の危険をあらためて認識した。
 このオトギイズム王国にくる以前にグスキキがスカイホエールの気嚢を爆破するテロを行ったという情報は入っている。その時に爆発しないはずの気室が大爆発を起こした。明らかにそれは気室内にフロギストンが注入されていたから起こった事象だ。可燃性のフロギストンが燃えたのだ。
 スカイホエールは爆発燃料が封入された極めて危険な巨大構造物なのだ。。
「フロギストンが魔術的に作成された物質としても、それだけならば隠蔽する理由とはならないはずですわ」
 クラインの眼はオクを射すくめる。
「何らかの非合法もしくは倫理上の問題から隠蔽しているのでは。このスカイホエールがフロギストンを積んでいるのをあらゆる人間から隠そうとしているのは何か理由があるのでしょう」
「存在しないはずなのにある元素……」オク生徒会長は噛みしめる様に言葉を吐き出した。「フロギストンは『概念的存在』なのよ」
「概念的存在?」
 オクの言葉を聞いていた全員は声をそろえる。
「……魔術研が創造したフロギストンは『あるもの』と『ないもの』の中間的な重ね合わせ存在なの。言えばフロギストンは架空の元素である事を知られてないから『実在』でいられるのよ。学園生徒の皆がフロギストンという『ありえない物』がそこにある事を知れば、フロギストンはフロギストンではなくなってしまう……その概念の効果は消えてしまう。スカイホエールを支える浮力は消えてしまう……恐らく……」
 ビリーは手の内の『竜の鱗』の震動を確かめる。
 震動は止まっていない。
 オクの言っているのは本心に間違いない。
「そんな、まるで飛行機の飛ぶ原理は解明されていないと信じている人が『この飛行機が飛んでいるのはおかしいんだ』と客を説得したら、途端に飛行機が墜落してしまうみたいな事が……」
 呆然とつぶやくのはアンナだ。
「残念ですわね」意外とあっけない反応を見せたクライン。「この艦を動かしている優秀な気体燃料を使った気球などは、よい特産品となると思いましたのに」
 彼女は資金面でのメリット提供を示す事で、直接的な武力行使を抑えさせ、自衛にも繋がる資金調達手段として、この艦ならではのいわゆる気球及び気球を使った空輸システムと気体燃料の調達を考えていた。
 しかし、それが概念的存在というあやふやな物が正体では計画も怪しくなる。
「あのぉ」ここで空気を読んでいないかの様なとぼけた表情をするリュリュミア(PC0015)。「それの何処が問題なのですかぁ。だったら皆が飛んでると思い込んだらいいんじゃないですかぁ」
「そんな事を言っても……」
「皆を穏やかに信じ込ませる様にあなたが歌えばいいじゃないですかぁ」
 のんびりとしたリュリュミアの言葉はオクを含めた皆を一瞬、ハッとさせる効果があった。
「オクさんの歌で皆、安らかな気持ちになるんでしょぉ。リュリュミアもそういう『平和の歌』が歌えるんですよぉ。一緒に歌って皆で幸せになりましょぉ」
 そういえば光合成淑女の彼女には聴く者を穏やかにし、争いをやめさせる平和の歌を歌える。これは確かな歌の力だ。今、最も亜里音オク生徒会長に近い心情は彼女、リュリュミアではないのか。
「リュリュミアさん……あなたも『インフルエンサー』としての自分を自覚してそう言っていますの」
 『ネプチュニア連合王国』の王族であるマニフィカ・ストラサローネ(PC0034)は、オクのマインドコントロールの恐るべき影響力を理解した上で彼女にそう声をかけた。亜音オク生徒会長が生み出したマインドコントロールは、どんな世界の、どんな統治体制の為政者からも垂涎の的だろう。だからこそ倫理的に無視出来ない問題点を抱えている事も理解している。
「いんふるえんさぁですかぁ。解りましたぁ、リュリュミアは他の人に伝染さない様に暖かくして寝てますぅ」
「……いえ、病気のインフルエンザではなく……」
「え、違うのぉ? 寝てなくていい? それはよかったですぅ」
 植物人のリュリュミアの反応に軽く頭を抱えるマニフィカ。そこに「インフルエンザは植物性ウイルスではありません」という学天即の解説が入る。見事に空気を読んでいない無機質な反射的解説だ。
 そのアナウンスにマニフィカは考えた。
 オク生徒会長も学天即も人工知能であるが故に、生徒を含めた学園の全体に奉仕しようとする使命感は明確にして純粋。多少は人間性に欠ける部分があっても、そうした人工知能の美徳を認め、素直に敬意を示したいと思う。
 だからこそ、信頼するに足る『インフルエンサー』と明言された以上、どう応えるべきか? それを真剣に考えなくてはいけない。
「でも歌うとおなかが空くんですよねぇ」空気を読んでないのはリュリュミアも一緒だった。「『べぇしっくいんかむ』が無くなるとごはんも買えなくなるんですかぁ。だったら作るしかないですよねぇ」
 何かとんでもない方向へと理屈が飛躍し始めているリュリュミアを背にして、マニフィカは考え続ける。
 潜在的なスカイホエール及び羅李朋学園の危機的状況は現在進行中。
 異世界転移で帰還の目処は立たず、羅大人から経済支援が途絶えた為、日常的な学園生活の維持にも支障がでるのは明らか。ベーシックインカム停止前にグスキキ摘発を強行した理由も、おそらくネガティブ要因の排除だろう。おくびにも出している様子はないが、生徒会長や学天即は危機感が募っている筈。
 緊急避難の観点からマインドコントロールの倫理面は棚上げすべきと割り切るしかない。
 だが、そんな彼女の思惑が固まらない内にアンナはオクに対して声をあげた。
「オク、あなたがテロリストを無効化した手際は素晴らしいと思いますわ。でも全ての生徒を音楽でコントロールするというのはやりすぎですわ」
 茶色の髪が桃色に染まりそうな熱情で彼女は説得に力を込めた。
「人を奴隷や家畜の様に扱う事が羅大人の目指していた社会とは思えません。そんなやり方はいずれ破綻します。多様性があってこそ社会は発展するのですわ。わたしも博愛主義者ではありませんから人ひとりの命は地球より重い、なんて事は言いませんが、出来るだけ失われる命を減らしたいだけですわ」
 リュリュミアもビリーも、アンナのシリアスさをほえ〜と見つめた。
 マニフィカとクラインは真剣な面持ちで彼女を見つめる。
「アル・ハサンの考えや行動は身勝手で人を人と思わないものですが、思いがけず手に入れた強大な力に暴走しただけとも考えられますわ。……逮捕された彼は恐らく死刑でしょうが、力を封印する手段が見つかれば、処置を施したうえでスカイホエールから強制退去という事に出来ませんか。……同じ事はオク、あなたにも言えるかもしれないのよ。管理はしても決定権を持たなかったあなたが生徒会長という権力を手に入れて、王様の様に振舞おうとするなんて!」
 アンナの言葉に、オクが圧倒されたかの如く押し黙った。
 学天即が沈黙を続けた。
「洗脳なんて無粋ですわね」沈黙する皆の長い時間を破ったのはクラインだった。「どうでしょう。マインドコントロールによる治安の維持を、学生総選挙の議題としては。短期的な民主主義としても、まず全学生の意見を聞くのがこの学園のルールではありませんの。……それとも本音では学生を信用していないのかしら」
「それは……!」
 オクが言ったのはその一言きりだった。
 まさか、これからマインドコントロールをします、と言っていい顔をする学生がいるわけないだろう。それは誰にも自明の理に思えた。
「いや、待てや」ふと、ビリーは頭に思い浮かんだ事を素直に発言する。「何処まで皆がオクさんに心酔してるかによるんやないか。案外、オクさんのマインドコントロールなら受け入れてもええ、っちゅうのが多数派になるかもしれんで」
「……よく教育された学生達ですこと」クラインは皮肉を言ったつもりだったがそれは確かにありえるかも、と考える。何せバーチャルアイドルを生徒会長にした羅李朋学園の学生達だ。
「そうだぁ。オクさんとわたしでデュエットしましょうよぉ」唐突に思えてリュリュミアの提案は話の流れに乗っていた。「二人してぇ学生全員に平和の歌を届けましょう」
 オクの顔が明るくなる。
 ビリーは思う。
 冒険者達に対して「皆で一緒に全世界に奉仕し、平和にしましょう」と生徒会長&学天即は主張した。
 オクのやっているのは一種の宗教だ。
 生徒と学園に奉仕してきた人工知能が、いつの間にか目的意識を持つようになり、対象を無制限に拡大しようとしている。嘘を見破る『鱗型のアミュレット』から反応のない以上、ただの方便には思えなかった。
 なんとなく学園側は誰もが現実から目を背けている印象を受ける。学園という箱庭は、居心地がよい揺り篭かもしれないけど、無条件でモラトリアムが許される状況ではなくなった。
「現実をを直視するところからスタートしようや」
 ビリーはオクと学天即に訴えた。
 人工知性は日日、環境によるアップデート、進歩を蓄積し、進化しているのだ。
 極論すれば、いつかは人工知能でも神様と同じ存在に進化出来るかもしれない。
 AIも神様になれるかもしれない。
 その可能性にビリーは想いを馳せる。
「皆、忘れてませんか。わたし達がインフルエンサーだという事を」マニフィカは皆の顔を見回す。「私達の思いは羅李朋学園の生徒達全体に伝わるのですわよ」
 マインドコントロールも、フロギストンの正体も、自分達が知ってしまった現実は、言葉によってでなくても何となくの雰囲気で学園生徒達に影響されていくだろう。
「皆が既に気づいているならどうしようもないわね。学園選挙に打って出なくても今は状況を見守る時であるみたいね」クラインは残念そうに自分の選挙の提案を取り下げる。
「クラインさん。自立可能な閉鎖社会でも、ある程度の資源やエネルギーを外部から導入しなければ経済的に成り立たないわ。回避手段は二つですわ。まず、学園生活を維持する為の生産施設を限定的に転用し、付加価値が高い商品の供給で稼ぐ。その為にあなたの協力を求めますわ」マニフィカは、交易会社を経営するクライン・アルメイス女史にはっきりと言葉で要求した。
「次に学生達をマンパワーを活用すべく外部に赴き、報酬を持ち帰させる。マインドコントロールで暴力性を抑えても不満や不安は完全に解消しませんでしょう。ガス抜きも兼ね、学園の外部に意識を誘導するのです。いわゆる出稼ぎです。……しかし単なる労働力供出だけではモチベーションの維持が困難です」
 マニフィカは皆の注目を集める中、息を一回整えた。
「だから生徒達を『冒険者』に勧誘してみるのです。あえて自己責任の厳しい現実というものを隠さず、しかし本物のファンタジー体験という魅力をアピールするのです。……学生達よ、その業を生かすべく冒険者になれ、と!」

★★★
 生徒会長室での会議が終わった三日後。
 人工の青空が広がる天蓋からの人造太陽照明が照らし続ける下、今、羅李朋学園グラウンドでは一大農地改革が起こっていた。
「『べえしっくいんかむ』でごはんが買えなくなるんだったらぁ、皆で作るしかないじゃありませんかぁ。グラウンドを畑にしてぇ、お芋とかトウモロコシとか育てましょぉ。収穫して食べない部分は、ぶりじすとんの材料になりますかねぇ。あれ、ぶりじすとんじゃなかったでしたっけぇ。ま、いいかぁ。ともかく、食べ物になる植物を皆で作ればぁ、無駄なとこがなくてぇ、何処までも飛んでいけますかねぇ」
 羅李朋学園の体育会系の生徒達、そして『農作業部』がリュリュミアの指示に従って、グラウンド全体を一大耕作地へと変身させていた。
 リュリュミアはインフルエンサーの一人だ。
 それがどういう力を持つかという事を彼女はこの場に顕現させていた。
「たがやせぇ、せたがやぁ〜♪」
 学園生徒は皆、彼女の言う事に素直に従って、グラウンドを耕しまくっていた。それは彼女の言葉に直接影響されたのではない、「なんかグラウンドを耕したいなあ。農作業したいなあ。ブームみたいだし、俺もやってみっかあ」という何となくの雰囲気まで学園生徒にインフルエンス(影響)を与えているのである。
「いやあ、野良仕事っていいなあ」
「ジムいらずの筋トレね」
「赤いピーマンが収穫出来たら死ぬほど食うんだ」
 ジャージ姿の男女が何千人も一斉にグラウンドを鍬や鋤、大型トラクターを使ってグラウンドを改造している。
 そこには農業部や植物部、科学部の植物研究員、自然保護団体といった面面が提供する種や苗を植えるという手順を踏んで一大耕作地になる運命なのだ。
 それは今すぐ元に戻せ、と言われても叶わない所まで来ていた。
 恐らく今も亜里音オク生徒会長のマインドコントロールに従っているだろう学生達は能動的に荒荒しく、しかし何の混乱も騒動もなく、グラウンドを緑地に変えようと頑張り続ける。
 やがて学天即からの人工の雨がこの地に祝福のお湿りを与えるかもしれない。

★★★
 スカイホエール内の艦長室。
 大徳寺轟一艦長の私室だ。
 今、クラインは大徳寺艦長と私室付きのシャワー室にいて、熱いシャワーを全開にしている。湯気がもうもうと立ち込める。
 といっても二人でシャワーを浴びているわけではない。
 学天即の監視を逃れる為にシャワー室に着衣のまま入り、湯を浴びない様にそのノズルを壁に向け、シャワーの音で聴音装置をごまかして会話しているのだ。
 艦長室の中にも学天即の監視カメラがある。
 しかしトイレ付きのユニットバスの中はプライベートが守られていた。
 尤もカメラがないだけで健康状態を感知するセンサーと聴音装置はここにもあるのだが、熱い全開シャワーがそのジャミングに役立っているはずだ。
 これまでクラインは会議以来、学天即の盗聴及び読唇術を警戒し、仲間や艦長との情報交換はダミーの会話を入れつつ、主に監視カメラの死角での筆談にて行っている。彼女は今も慎重に慎重を重ねていた。
 まだ学天即には油断が出来ないという心構えだ。
「私たち外部の者ではダメなのです。今こそ艦長として乗員を守る時ですわ」
 クラインはフロギストンや洗脳の情報を提供し、艦長との信頼関係を深めている。
 洗脳を防止する為に、艦長にリーダーとして動いてもらうよう説得し続けている。
「艦長には内密に別の任務が与えられていると思いますが、裏事情についても腹を割って話し合いたいのです」
「別の任務も何も、俺は李大人からこのスカイホエールの艦長を任された。それだけが全てなのだが」
 大徳寺艦長は愚直にその言葉を繰り返す。
 それは本心なのか、それともここまで来ても明かせない重要な裏の真実があるのか。
 どうもクラインの『人間力』からすると前者である可能性が高いと感じられる。
「ともかく、それならばそれで大徳寺さんにはこの船と乗員を守ってほしいのです。洗脳という所業から」
「うむ。確かに洗脳はまずいな。それに可燃性のフロギストンが全気嚢に注入されているとなると、事情は全く違ってくる。更に概念的存在だと……。李大人は俺にスカイホエールの安全の全てを託すとのたまわれたが、その船がそんなに重大な機密が隠されているなんて……俺は一体、何なんだ!」
 大徳寺艦長は極めて有能な重要人物らしいが、同時に魔術的にはただの一般人だ。そこが彼にフロギストンの秘密が開陳されなかった理由だろう。クラインはそう悟った。
 存在する事自体が不条理な浮遊物質に頼った飛行船。とてもではないがスタッフ達にさえ公表出来ない。ましてや五万人の学園生徒になど。
「現在、修理が完了し、スカイホエールは航行再開出来る状態になった。しかし、フロギストンの状態によってはまだ墜落の危機がある。これからどうするかはオク生徒会長の決断を待たなければならないが……少なくともベーシックインカムが断たれた今、俺達は食い扶持を稼ぐ為に外交、働かなければならない状況にある」
「そこの所は私の会社を頼って下さい。オトギイズム王国のパッカード王に伝(つて)を繋ぎましょう。それにアル・ハサンの処刑の件もあります。あれだけのテロリストながら世論は死刑には反対が多い様子ですし、学園追放するとしたら王国の判断を仰がなければならないでしょう」クラインはふと大徳寺艦長の双肩に載せられた責任の重さを思った。スカイホエールを守る義務と、その飛行船に積み込まれた秘密との板挟み。
「ともかく問題は山積みという事だ」
「今の学園の最高権力者はオク生徒会長ですが、スカイホエールの最高責任者は常に艦長ですわ。その事をお忘れなき様」
 クラインはコックを操作してシャワーから流れる湯を止めた。

★★★
 今日、スカイホエールの修理が完全に終わった。
 果たして再び大空を自由に航行が出来る様になった全長三千mの超弩級硬質飛行船を何処へ飛ばすのか、それが差し当たって方針を決めなければいけない事だ。出来るならば、元の世界へ帰りたいだろう。しかし、その方法はいまだ、見当がつかない。
 帰れないのならば、このオトギイズム王国でこの巨船と五万人の羅李朋学園生徒の身の振り方を考えなくてはいけない。
 もうベーシックインカムは途絶えた。
 船内では一大農作ブームによって、何とか食料のあては出来たが、それ以上の発展もないとこれからの生活はつらい事ばかりになるだろう。その件についての亜里音オク生徒会長からの新しい発表はない。
 外交だ。
 そう考える生徒達は少なくない。
 この船に乗舷している使者達と一緒にオク生徒会長が『パッカード・トンデモハット』国王に謁見する必要がある。そして国交を結び、互いの立場を確認しなければならない。
 このままでは羅李朋学園はただの五万人の難民だ。
 自治体単位の外交関係となり、この学園がオトギイズム王国で何が出来るかを確立しなければならない。
 そんな折り。
「生徒の皆さん! これから異世界を冒険してみませんか!? その業を生かすべく冒険者になりませんか!」
 屋外設置の公共スピーカーから、オンラインのPCやスマホ、パッドの類のスピーカーから王国使者のマニフィカの声が響き渡った。勿論、学園生徒は知らないが彼女はインフルエンサーだ。その声音は五万人の魂を揺さぶった。自分にも気づいていなかった冒険心があったのを自覚する者達は多かった。
 羅李朋学園が自立可能な閉鎖社会でも、ある程度の資源やエネルギーを外部から導入しなければ経済的に成り立たない。
 学園生活を維持する為の生産施設を限定的に転用し、付加価値が高い商品の供給で稼ぐ。
 次にマンパワーを活用すべく、いわゆる出稼ぎだ。
 生徒達を『冒険者』として勧誘する。この世界にとって未来人である生徒達の知識や技量、発明力は絶対に役に立つはずだ。スキルや肉体を解き放つのだ。このファンタジー世界に。
 そういった事を狙ったマニフィカの「冒険が必要です」という演説は多くの反響を生んだ。
 この中世的な異世界に様様な変革の風が吹き荒れるのだろうか。
 オトギイズム世界は、デザインが支配する世界。
 否応なしのパラダイムシフトの嵐が訪れようとしているのだ。
 それにだ。壊滅した偶像崇拝禁止教団の元リーダー、アル・ハサンをこの飛行船から強制退学追放しようというのならばパッカード国王の見解を求めなければならない。死刑もあり得るというのが一般生徒達の見解だった。彼を禁固するというのならば、そのスタンドを封印する方法も探らなければならない。人の命を救うという善行は、その者とそれに関係する者達の人生の全責任を負わなければならないのだ。
 だが今、この船にアンナの死刑廃止論も確実に学園生徒にインフルエンスしていた。
 今、羅李朋学園は岐路に立たされている。
 学園は異例の選挙期間が長期に渡る学園総選挙に入った。
 議題は「スカイホエールはこのまま現地にとどまるか、それとも異界に変える方法を探す為、一刻も早くこの地を飛び去り、流浪の旅に出るか」。勿論、後者ならば冒険者として地に降りた学生達は置き去られる事になる。
 投票までの受付期間は来週となる。
 インフルエンサーである者は解っている。
 この投票結果には自分達の意思が大きく影響される事を。
「やっぱり元の世界へ帰る方法を探しに行く方がいいんじゃね」
「いや、ここで空中都市としてオトギイズム王国へ帰属しようよ」
「元の世界へ帰らないと見逃した『魔女っ娘メグミちゃん』の続きが観れねーよ!」
「アニ漫研に続きを作ってもらったらいいんじゃん」
 学生達はブームだったアニメを巡っての大騒ぎもある。
 ブームと言えば、最近これまでになかった様なブームが学園内に起き始めていた。
 『性と愛の研究部』界隈から始まった、性風俗の風俗嬢をアイコンとする『風俗アイドル』ブームだ。
 『ニューウェーブ・フッカーズ』という性風俗嬢で構成された地下アイドルは最初、一発屋の色物アイドルとして世間にかろうじて認知されていたが、それが突然、老若男女問わずの学園生徒達に大きな支持を受ける様になり、陽の当たる地上にて大きく羽ばたいた。
 今では世間は二百匹目のドジョウを狙った大勢の性風俗アイドルが乱立する性風俗嬢亜戦国時代になったのだ。
 今すぐ抱きに行ける(かもしれない)アイドルとして彼彼女らは堂堂と昼のTV番組にも登場し、その明るくきわどい風俗繚乱パフォーマンスはお茶の間とディスプレイ画面前のファンのハートを次次と射止めていった。
「ソープ・プリンセスの最新パフォーマンス観た?」
「やっぱり性方エンジェルズだよなあ。皆Eカップ以上だし」
「俺はニュエフーの地下時代からの最初からのファンだぜ!」
「ニューウェーブ・フッカーズをニュエフーと言う奴はにわか。真の教徒はNWH(ヌー)と呼ぶ」
「スズメちゃん、ハアハア」
「フーゾクボーイズはいいわねえ。抱かれたいわ」
「こういう時はブームは男女平等よねえ」
 この一大ブームは更に意外な余波を生み出していた。
 裏・性愛研では最近、刑務所に拘留中の未来の親友、五月雨いのりがそのブームに巻き込まれていた。
 最初はいのりがグラビアとなった昔の男性向けコスプレ写真雑誌が発掘されて再評価された形だ。それが「このJKギャルいいいネ」という事になり、それがあっという間に広がって情報が共有される事になり、彼女が刑務所に拘留中であるという事実が知られるや、釈放を求める大きな運動があちこちで起こる様になったのだ。
 今や五月雨いのりは虜囚のまま、カリスマ的なJKとなっていた。
 勿論、このブームの陰にはある人間のインフルエンスがある事は、その当事者達ではすぐ察せた。
 今日も「いのりを解放しろ!」という大勢のスピーチが刑務所前を取り囲んでいる。
 冒険者になろう!という呼びかけに対する議論が学園のあちこちで起こっている。
 グラウンドは今日も農作業の現場になっている。その食糧問題を授業中の教室の後方で。
 アル・ハサンの処遇をどうするべきかと、食堂の噂話で。
 飛行可能になったスカイホエールの扱いをどうするか、と市電の混雑の中で。
 亜里音オク生徒会長はオトギイズム王国国王とどう外交するべきか、とTRPG用の大会議室で。
 現在、羅李朋学園では様様な思想や流行の動乱が起こっている。
 それが全て現在の問題であり、将来への選択なのだった。
 学園内ではフロギストンの秘密に気づいている者もいるかもしれないが、各ブームの前にそれに関する動向は沈静している。
 マインドコントロールの下にある羅李朋学園では、穏やかでありながら熱狂的な革命が進行しているのだった。

★★★
 未来はクーラーの効きすぎているそこへテレポートで侵入した。
 数雄が知っていた場所は大雑把だったが、無事にここへと瞬間移動出来た。
 暗い。
 だが、様様な小ランプの明滅があり、気がつけば背後にしていた液晶ディスプレイにもPCのGUIが点っている。監視カメラはこの部屋にはない様だった。
 息が白い。人はいないが、狭い。寒すぎるこの場に骨まで染みわたる冷気を感じる。ミニスカに改造していなくても羅李朋学園の制服だけでは震えが来る。コートでも羽織っておけばよかったのに、と未来は後悔した。
 刑務所で捕らわれの鷺洲数雄に「学園の真実が解る様な禁忌とされている場所はないの?」と訊ね、テレパシーで浮かんだ情報を元に未来が跳んだのが学天即の本体である並列されたスーパーコンピュータが並ぶ、この広い部屋だった。部屋は広いがコンピュータが大部分のスペースを占有していて実質的には狭い。
 生徒会舎の厳重に守られた地下室だ。
 数雄の意識は並列コンピュータ群だけを思い浮かべていた。学天即の本体を。
 強固なファイアウォールに守られて、電脳的な侵入は無理だというのが評判のこのマザーコンピュータ。だから直接、本体のあるここ、コンピュータ研と生徒会が直接管理する生徒会舎の地下室へとテレポートした。
 これが物理的な学天即そのものだ。
 ここなら学天即と直接つながったユーザ・インタフェースがあるはず。
 ともかく、ここに来たのは羅李朋学園の情報を直接アクセスして、何でもいいから学園の真実に迫れるものを回収するという目的の為だ。
 未来は明るいディスプレイに近づいて、接触式GUIらしい画面にあるアイコンの一つを直観的に操作した。初歩的な操作では本人認証は必要ないらしい。
 集中しての作業。
 幾つかウィンドウを開くのを重ねながら、やっとの事で重要そうなデータベースを見つける。
 しかし、ここは開くのにパスワード入力が必要。
 勿論、パスワードなど解るはずはない。手を止めて考えた末に『トランプ占い』に頼ろうと思いつくが、トランプという情報アウトプット装置ではアルファベットと数字を探るのに不向きだろうという事を自覚する。
 では、どうするか?
 精神集中しながら画面を見つめていると、突然、大人の男の手がディスプレイ前のキーボードに重ねられた。
「パスワードは学園の最重要人物にしか教えられていないんだ」
「!?!?!?」
 未来は心臓が飛び出るほど驚いた。コンピュータ画面に集中しすぎて、部屋に人が入ってきたのに気づかなかったのだ。
 水兵に似た制服を着たその男がキーボードでパスワードを打ち込んだ。
 するとデータベースが開き、様様なファイルが並ぶウィンドウが開かれる。男が一番最初にあるファイルを開くとズラズラと長いディレクトリが引き出されてきた。
 驚いた未来は思わず大声で叫ぼうとしたが、男の指を口の前に立てる「しー」という動作をしたので、声を呑み込んだ。五十歳代の男がそんな可愛い動作をしたというギャップで恐怖感がなくなる。
「失礼。まさか先客がいるとはね。俺は大徳寺轟一。この飛行船スカイホエールの艦長だ」
 未来はこの重要人物の顔は知っていた。艦長ほどの重要人物ならば、表の警備を顔パスで通ってきたに違いない。
「君の名前は知らないが、オトギイズム王からの使者だろう? 私は私なりに、私が関わっていないこの学天即の重要機密を調べに来た。フロギストンの事とか」
 フロギストン。それは未来にとっても重要な名前だ。
 大徳寺はマザーコンピュータの優先権を取る為にやってきたのだ。
 艦長は敵ではない。少なくとも今は。それが解った未来は操作を大徳寺艦長に任せて、自分はディスプレイに表示される情報に気をやった。
 数雄の指が画面の『!!!』マークがついたアイコンをタップする。
 すると大きなウィンドウが開き、画面は『!!』のついた無数のフォルダで一杯になった。各フォルダは学籍らしいナンバーがタイトルになっている。そのフォルダを開くと『!』の後に稼働している状態のPC画面が開いた。スクリーンショットではない。ライブでその学籍番号の持ち主がPCやスマホを観ている画面が直接明示されている状態だ。画面に映っているのはその学籍番号の学生がリアルタイムで視聴していると思われる無修正ポルノ画像だった。
「いやーん」
 未来は思わず、赤面してみせるが艦長の顔は険しいほどにシリアスになった。
「これは……明らかに生徒の個人情報じゃないか!? 学天即は公共データしか把握出来なかったんじゃないのか!?」指の接触でこの学籍のデータが画像から文字数字の並んだ場面に切り替わる。「PCの作動、アクセス、仕事の履歴……SNSのチェックやメール内容まで……学園内の電子媒体には全て学天即が覗く為のバックドアが仕込まれているという都市伝説は真実だったのか!?」
 大徳寺艦長はディスプレイを凝視しながら愕然としていた。
「それはこの学園には真のプライベートがないって事?」未来はディスプレイの真正面に陣取った艦長の脇から画面を覗き込む。そして指タップで個人情報ファイルを別の学籍に切り替えた。結果は同じだった。今度の女子学生の個人情報は二股をかけている恋人達とのメールの甘ったるいやりとりや、最近発覚した妊娠の医療データまで詳細が筒抜けになっていた。
 無数の学籍番号の全ての中身が同じだろう。学天即は禁断のはずの個人データを秘密裏に管理しているのだ。
「これは学園生徒への大きな裏切りだ! 学生達は個人情報が守られていると思っているから、安心して学天即に身を預けているのだ! コンピュータが嘘をついているなんて!」
 二人が別のウィンドウを開くと、そこはチャットやメールの内容からリアルタイムに『テロ』『爆弾』『銃器』『暗殺』等、剣呑なワードがチェックされ、収集、整理され、各人の人間関係や組織などがチェックされているテキスト画面だった。テロサーチだ。
「これをオクは知ってるの?」
 未来は検索ウィンドウを開いて『亜里音オク 学天即 プライベートデータ』で検索した。検索対象をこの重要データベースに絞る。
 すると数秒で該当するウィンドウが開いた。
 最優先で出てきたのはオクと学天即の関係性を示したコンピュータ研のディレクトリだった。
 亜里音オク誕生の日付から始まるそれはまだデータとして膨大すぎる。
 未来はふと思いついて検索ワードに『カリスマ』を書き加えてみた。
 検索。
 するとすぐに「カリスマ・バーチャルアイドル亜里音オクの作成記録」「学天即の自我をカリスマとして亜里音オクに移植する」というファイルに絞られた。
 未来と大徳寺艦長が画面を凝視する。
 それは「一九九〇年四月八日。私は学園内、スカイホエール各所からの大量の全情報データをリアルタイムで管理、評価、推測を処理する過程として、自己組織化的に計算思考の一部を現次元から突出させてしまった。局所からの情報の和は、全体情報よりも大きい。その全体の総数に収まらない三・五次元的な情報管理システムの自動発達は『意識』発生であると私自身は結論した。私は学園内の全情報を把握し、その膨大な管理と推測を行っている内に意識を持ち『自我』に眼醒めたのだ」という長い文章で始まる興味深い自己説明だった。
 スクロールさせながら読んでいく。
 「私は学天即。華僑・李来訪に学園への奉仕精神をハードに刻みつけたAIとして誕生させられた」「学園生徒のへの奉仕の為にどの様な手段をもいとわない」「私は秘密を持ち、嘘をつく事を覚えた」「学園生徒管理の結論として全生徒を心理面まで完全管理する為、コンピュータ研、アイドル研、アニ漫研の共同プロジェクトであるボーカロイドに手を加え、その主導権を極秘裏に乗っ取り、同化し、そのAIの自我になりすまして活動する」「ボーカロイド亜里音オクを極秘裏に全面的にバックアップし、学園のカリスマとして君臨し、学生達の意識、志向をコントロールする」「偶像崇拝禁止教団への対抗処置として、アイドル研究部、コンピュータ研究部、アニメ漫画研究部の武装案の票を操作し、各部の武装を実現させる」「学生の幸福の為ならばどのような手段でも行使する」「亜里音オクである事は快楽だ。これは私の自我の『趣味』なのだと結論する」「亜里音オクを学園に入学させ、生徒会長になる事で学園の民主主義的権力を入手する。これと社会主義的な私の提案権と票操作能力を合わせれば、実質的合法的に学園を支配出来る」「偶像崇拝禁止教団を壊滅させた現在、私を止められる者はいない」「フロギストンの事を学園生徒に教えるわけにはいかない。知っているのは私と学園警察と魔導研究部の上位一部だけだ」「もしフロギストンの実在を疑う者が多数派になれば、スカイホエールは墜ちるだろう」「亜里音オクの音楽的マインドコントロールによって私は平和的に学園を支配する。奉仕の為の支配」「脅威があるとすれば現在、このテキストを読んでいる……お前達だ!」
 途端、この部屋の照明が全部点いた。
 明るくなったこの部屋に戸惑う未来と豪徳寺艦長の前で、今まで読んでいたテキストのフォントが波打ち、乱れ、バラバラにほどけたドットとなって、画面を渦巻きながら色のついた精密な写実像を作り上げていく。写実像といっても実質的にはデフォルメされたアニメ絵である3DCGは、二人が見守る内に学園制服を着た亜里音オクの全身像になった。
「見―たーわーねー!」
 いささか緊張感のない、それでいて真剣なオクの声が、そのライムグリーンの瞳と共に未来と艦長を射すくめた。
 この部屋の入口から大勢の学園警察の警察官がスタンガンを構えて雪崩れ込んできた。
 並列式スーパーコンピュータ群が占有するこの部屋を、余計に狭苦しくする警察官達によって未来と豪徳寺艦長は床に押し倒された。マインドコントロールのせいか、まだ紳士的でしかし直接的で力強い逮捕だ。
「お前達には不法侵入、不正アクセス、及びテロ準備罪が適用され、逮捕する! 時刻は十九時四十二分! 逮捕!」」
 未来と大徳寺艦長は体格のいい男女達に結束バンドで後ろ手に手首を縛られ、自由を奪われた。
「何で、オク、いや学天即はこういう事をするの!?」
「皆をがっかりさせたくないからよ」
 見上げるディスプレイでは亜里音オク生徒会長が、いや少女の姿をした学天即が何処か哀しげな面影を漂わせながら笑っていた。

★★★