皇都太照機導帖

第参回「皇都湾に鯨を追え」

担当:飛鳥つばさ

皇都湾のナナちゃん

 お台場の岸辺から望む皇都湾に、高く、白く吹き上がる水柱が突如として立っ た。
 あれは昨今、皇都でも設置が進んでいる噴水と言うものか。
 いや、よく見れば水柱の下には、無限のような七色の色彩を持つ、巨大な、し かし確かに生き物の体があった。
 鯨、なのである。
 入り口が狭く水深も浅い皇都湾に巨大な鯨が迷いこむことは、ごく珍しい。し かし珍しい、と言うことは、ありえない、と言うわけではないわけで、これまで も何度か鯨の迷いこんだ例はあった。
 これまでの場合は、別段人に関わることもなく、入って来た時と同様いつの間 にかふらりと出て行ったり、あるいは出るに出られず湾内で力尽きたりしていた 。
 しかし、この七色の鯨は、自ら人の乗った船を追い回し、体当たりにて多数の 船を大破、沈没せしめていた。なにかと騒動の主である。
 そんな暴れ鯨とはいえ、珍しいものは珍しい。海が今鯨の縄張りと化している なら、陸は人間の縄張りである。そして、古来より皇都の、いや大和の人々は総 じて好奇心が強く物見高い。
 そんなわけで。
 この頃は休日ともなれば、皇都湾岸に群衆が鈴なりに並び、なんとも珍しい虹 色の鯨を見物するのが名物の光景となっていた。
「はぁい、ナナちゃん焼きにナナちゃんぬいぐるみ、ナナちゃん風船もあります よぉ〜」
 人が集うところ商売がうまれる。というわけで、今日もアクア・マナは 「ナナちゃん」を自ら名付けた鯨の土産を抱えて、人ごみを小忙しく走り回って いた。
 ちなみにナナちゃん焼きとはたい焼きの変形で、形を鯨に似せてある。あんは 黒あん、白あん、抹茶あんと三種類あって客を飽きさせない。今のところ、ナナ ちゃん土産ではこれが一番の人気だった。
 もっとも、毎日商売が順調に運ぶわけではない。
 七色鯨は人間の都合などおかまいなしだ。その時々の気分で出現場所が違う。 となると、見物客もそれを追って移動する。商売道具を抱えてそれを追いかける のは、なかなか骨のいる仕事だった。
「でもぉ、それももう少しの辛抱ですよぉ」
 ひととおり土産をさばいて一息つきながら、アクアは遠くの皇都湾上を回遊す る七色鯨に目をやった。
「ナナちゃんの観察場所を固定できればぁ、お土産の売り上げも今までよりもっ と伸びるんですぅ」
 アクアは、愛する妹が自分のためによい成果を上げてくれることを期待して、 にんまりと笑った。
 なんとも、たくましい商魂である。

 七色鯨が高く吹き上げる潮は、遠く梅の島からも眺めることができた。
 海を一望するのどかな耕作地に、一件の小屋が建てられ、そこはリュリュミ アが育てた農作物の直売所となっていた。
 たまに鯨がこちらに近付く日はここも大変な盛況だが、今日は至って静かであ る。
 着々と梅の島緑化計画を進めるリュリュミアは、小さな小屋に顔なじみの二人 の客を迎えていた。
「これをどうぞぉ。胡瓜に茄子、こちらは西欧野菜のトマトって言いますぅ」
 毎日お日さまの光をさんさんと浴びてすっかり葉緑素の濃くなったリュリュミ アが、おもてなしの品を二人の少女に渡した。
「ありがとうぅ。食費が助かるわぁ」
 満面の感謝の笑みで新鮮野菜を受け取るのは、亜梨沙で ある。性格が似通っているせいか、リュリュミアと話が合うらしい。
 一方の立花真由は、どうにも不満そうというか、焦れた 風に小やみなく体を動かしていた。
「あたしはこんな所で農業に目覚めてないで、早いとこ資材を集めて船を造らな きゃいけないんだけど?」
「マユぅ、あせってもいいものは出来ないよぉ」
 妙な刺のある真由の言葉を、亜理沙がのんびりとたしなめた。
「それにぃ、今回はぁ、あんまり無理して船を造ることないと思うのぉ。自動車 競走も飛行機大会もぉ、制作費を結構取られてるしぃ」
 おっとりした風情だが、亜梨沙の金銭感覚はしっかりしている。真由の金銭感 覚がまるっきり破滅的だから、比較でそう見えるだけかも知れないが。
「何をいうの!」
 真由はばん、と卓袱台を叩いた。みしりと脚がきしむ。結構な力だ。もしかし たら卓袱台の作りの方が貧弱なのかも知れないが。
「世の中、常に新しい技術への挑戦よ! 停滞すなわち後退! 我々人間は、前 進するその歩みを止めてはならないのよ!」
「でもぉ、研究所は海から遠いよぉ? どうやって完成した船を運ぶのぉ?」
 当然の亜梨沙の問いにも、真由は身長と生活環境のわりに豊かな胸を張った。
「心配無用! あたしには『船は水上を移動するもの』なんて既成概念はないわ ! 陸上移動の問題を解決する秘策は、すでに頭の中にある! 祖父さまの名に 賭けて!」
「うぅん、でもぉ」
 籠一杯の野菜を見つめながら、リュリュミアが口をはさむ。
「その船でぇ、鯨さんを捕まえるんですよねぇ。なんだか可哀想ですぅ」
「何をいうの!」
 真由は再び、勢いよく卓袱台を叩いた。……あ、今「ばき」とか嫌な音がした 。
「鯨なんて蛋白源よ! 魚となんにも変わりはしない! ……あっ、さてはあな た、東米の手先ね!? 自分達は牛食べといて『鯨を食べるなんて可哀想』とか 言うんだ! 捕鯨禁止の外圧反対!」
 なんだか趣旨がずれて来ている。勢いよくまくしたてる真由の迫力に押されて 、リュリュミアは困った顔で亜梨沙を見た。
 亜梨沙の方も、やはり困惑の表情でリュリュミアを見返し、そしてちらりと真 由を見上げた。
(できれば鯨狩りは止めてほしい)
 言葉には出さねど、面ざしは雄弁に語っている。
 亜梨沙が視線を外した直後、真由は長口上を止め親友を見た。……あるいは、 真由が振り向くのを感じて、亜梨沙が視線をそらしたのか。
 自分を見ないまま沈黙している親友を、真由はなんだか怒ったような顔で見て いた。


不思議少女の正体に迫れ

 横羽外国人居留地。豪奢なサーペント邸の一角にしつ らえられた書斎で、ミジキ・シャモンは書物の山と格闘していた。
 やや時間をさかのぼる。
「ふむ、七色鯨捕獲の依頼は受けられない、と言うのかね」
 珈琲をすすりながら言うサーペントに、ミズキは深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。しかし、亜梨沙さんのあの力を、もっと詳しく調べてみた いと思いまして」
「まあ頭を上げたまえ。亜梨沙君の持つ力の調査も、確かに私が依頼していた仕 事だ。七色鯨捕獲には他に人でもいるし、それぞれに向き不向きがある。君が望 むなら、存分に調査を進めてくれたまえ」
 西欧軍人の鷹揚な言葉に、ミズキはもう一度深く礼をした。
「ありがとうございます。ついては、サーペント様の書斎を使わせていただきた いのですが」
 館の主人がやや沈黙し、珈琲の湯気がゆれた。
「君たちには何かと世話になっているしな。本来ならあまり余人に見せたくはな いのだが、特別に許可しよう」
 サーペントが呼び鈴を鳴らすと、女召二人が進み出てミズキに軽く一礼 した。赤毛の短髪と青の巻き髪だ。
「この方々は?」
 やや当惑したミズキに、サーペントは答える。
「不案内な書庫をやみくもに探しても、目的の資料は得られまい。彼女たちは書 庫の蔵書に詳しい。助手のようなものだよ。自由に使ってくれたまえ」
 ミズキはやや迷った。本当なら余人に邪魔されず、一人で調べものを進めたか ったのだ。しかしサーペントの言うことももっともである。
「分かりました。お心づかい、感謝いたします」
 最後にもう一度頭を下げて、ミズキは書斎に向かった。
 そんな事があってしばらく後、書斎に戻る。
「う〜ん、覚悟はしておりましたけれど」
 ミズキは読んでいた本を放り出し、三方を紙の壁に狭い平面に突っ伏した。
 いわく、「女召大全」「獣耳と尻尾の魅力」「学生水着は旧式に限る」「女子 体操着の血脈を絶やすな」等々。
 全くもって、卿の嗜好のほどがつぶさにうかがえる蔵書傾向である。
 中にはうら若き乙女が開くにはあんまりな内容の書物まであって、ミズキは二 度三度ならず、この仕事を希望した事を後悔したものである。
「ミズキさん、これはどう?」
 青巻き髪の女召が新たな一冊を手に、くじけかけたミズキを優しく揺り起こし た。
 いいかげんうんざりしつつあったミズキだが、差し出された本の題を見たとた ん、顔色が変わった。
「賢者の石」
「……これは、亜梨沙さんが持っているあの石に関係あるのでしょうか?」
 たちまち本来の仕事に対するやる気を復活させて、古びた分厚い書物に取り組 む。
 その本には、こんなことが書かれていた。
“通常錬金術を行なう際には、避けようのない損失により、製品の質・量は素材 のそれに及ばない。しかし「賢者の石」は反応過程で生じる損失を補完し、完璧 なる製品を創り上げる。その力は、「創造」と「破壊」の双方を併せ持つ「賢者 の石」特有の力により生じる……”
 錬金術。ミズキもこの皇都に来て、小耳にはさむ事があった。卑金属から貴金 属を、あるいは無生物から生物を創造する事を最終目的とする術だと言う。用い る素材が人倫にもとる場合が多く、近年ではほとんどの地域で禁制が敷かれてい る。
「亜梨沙さんのもつ石の力は『治癒』『再生』だそうですが……」
 ミズキは本を読み進めながら考える。あるいは亜梨沙の持つ石が「賢者の石」 だと仮定しても、「破壊」の力が欠けている。もしかしたら、まだ発現していな いだけなのかも知れないが。
 やがて書物を読み終わるころ、ミズキは頁の間に、走り書きが挟まっているの を見つけた。興味にかられて引き出し、目を通す。
 古びた紙切れを苦労して読みとくと、こんな事が書かれていた。
“二つに分かれた片割れと『全き肉』がそろう時、人は自らの手で生命を創り上 げる……”

 七色鯨捕獲に出漁する人々の中で、クレハ・シャモンはある人物を待っ ていた。
「彼女たちのことです。また意表をつく船で現れると思いますが」
 クレハの予感は当たった。遠くの方から、ごうごうと風の音が近付いてくる。 音はどんどん大きさを増し、耳に耐えがたいほどになったころ、砂ぼこりを巻き 上げながら、巨大な浮き輪のような布幕を下部に備えた船が「地上を走って来た 」。
「『空気浮上式高速艇(ホバークラフト)』、なんだかんだで今回もみごと完成 〜」
 ハッチが開いて得意げな真由が顔を出した……と思ったら、例によっての修羅 場明けがこたえたのか、強烈な日ざしを浴びてくらっと倒れる。
「あ、すみません、取材です〜」
「空気式浮上高速艇」とやらが発する強烈な騒音に負けじと声を張り上げると、 ほどなくやや緩慢な動きながら、茶色のような緑色のような謎の栄養剤をちゅう ちゅうすすりながら真由が首を出した。
「はいはい、取材は歓迎よ〜。この先進技術の結晶を、余すところなく伝えてあ げる〜」
「いえ、真由さんではなく、亜梨沙さんに」
 長口上に移る前に、素早くクレハは手を打った。再び船内に沈没した真由に代 わって、亜梨沙が「空気浮上艇(略称)」から出てくる。
「アリサに取材ですかぁ?」
「はい。真由さんはかなり、そのぅ、積極的な性格で、勇み足も多いですが、そ のあたりを抑えるコツはあるのでしょうか?」
 はじめは当たり障りのない話を選んだつもりだったが、亜梨沙はやや表情をく もらせた。
「う……ん、でもぉ、それがマユのお仕事なんだしぃ」
 ちらちらと背後の「空気浮上艇」を伺いながら答える。
(まずいですね。かえって印象を悪くしてしまったかも知れません)
 クレハはやや後悔したが、当初の予定通り本題に入った。
「ところで亜梨沙さんは真由さんの家で暮らしておられますが、ほんとうのご家 族は?」
「うぅん」
 亜梨沙はまた考え込んだ。しかしその表情には、先ほどのような影はない。
「正直ぃ、ほんとうの親のことはぜんぜん覚えてないのぉ。物心ついた時はぁ、 もうマユとおジイさまといっしょでぇ。ちょっと親とか聞かれてもぉ、ぜんぜん 実感ないのぉ」
「そうですか。大変な身の上ですね」
 あいづちを打ちながら、クレハは秘かに亜梨沙の霊力を量っていた。
 霊感をめぐらせるクレハに、異様な手ごたえが返ってくる。
(これは、生き物ではない?)
 亜梨沙の「霊質」は、ひどく不自然なものだった。
 あちこちがつぎはぎで欠けている。「魂」もつくりもののような感触で、明ら かに普通の生き物ではない。 (陰陽術の式神の感触に似ています……しかし、それだけではないような)
「どうしましたぁ?」
 きょとんとした亜梨沙の問いかけに、クレハは我に返った。
「あ、すみません。ちょっと急用を思い出しまして。失礼します」
 あまりしつこく付きまとっても怪しまれる。クレハはひとまず、横羽で待つ妹 へ報告に戻る事にした。


鯨を追う者、人を追う者

 皇都湾上を吹く海風に乗って、そろそろ大和でも少数派になりつつある木造の 帆船が波をけたてていた。
 その甲板上に立つのは、例によっておみつ、有造、無造 のはぐれ侍三人組である。
「さすがに船足の違いはどうしようもないね。でもあの小娘たちは鯨を追っかけ るに決まってる。小娘たちが鯨相手に難儀してる間に、こっちは追いつけるって 寸法さね」
 視界に捕らえられない真由たちを探しながら、しかしおみつの顔に焦りの色は ない。時間をかけて確実にしとめればいい。そんな算段が見て取れる。
「無造、周りの警戒、さぼるんじゃないよ」
「合点でござんす、姐御」
 遠眼鏡を構え物見櫓に立った無造が、ゆっくりと体を半回転させた。
 すると。
「! 航跡1、えらい速さでまっすぐこっちに近付いてくるざんす! 船じゃな い、魚でもない……あれは何なんざんすか?」
「どっちにしろ、ろくなもんじゃなさそうだね。取りかじ一杯、回避!」
「合点でさ。ふんぬ!」
 おみつの号令一下、有造が力まかせに舵輪を回転させる。間一髪、三人組の木 造船は謎の航跡をかわし、謎の航跡はしばらく行き過ぎたところで突如として大 爆発を起こし、巨大な水柱を吹き上げた。
「すまんな、魚雷発射管が滑った」
 サーペントから借りた通信機が、だしぬけに声を発した。
「武神! あんた、どういう了見だい!」
 伝声端末をひったくって怒鳴り散らすおみつに、通信機の向こうの武神鈴 はぬけぬけと答える。
「なにぶん、この『音速剛轟号水上・水中仕様』は試作段階なものでな。誤作動 も多い」
「ほーぅ、そういうわけかい」
 全く悪びれない鈴の口調に、おみつの目が座った。
 前回サーペントから巨万の借金をした鈴の前に取り立て人として現れたのが、 この三人組である。おみつは「真由の持つ超科学の遺産と引き換えに、借金を棒 引きしてやろう」と話を持ちかけたが、鈴はこれを断固拒絶し、まっとうに金を 返す道を選んだ。はずなのだが。
「そんなつもりなら、こっちも容赦しないよ。無造、戦闘準備!」
 号令一下、がりがりのっぽの手下が物見櫓から転がり落ちてくる。
「出来るかな? 『音速剛轟号』は今海の中だ。潜水している相手への攻撃は難 しいぞ」
「はっ、そんなこと!」
 おみつは強気に笑い飛ばす。
「こっちはあの小娘とやり合うつもりで来てるんだよ! 常識外れの仕掛けを相 手にするのはお手のものさ。無造、爆雷投下!」
「あらほらさっさ〜」
 妙な節回しと共に、無造が樽のような爆雷を次々と海中に投げ込んで行く。ほ どなく、海底に達した衝撃で爆発が起こり、小さな帆船の背後はおびただしい水 柱につつまれた。
「直撃を受けない限り問題はないが……とにかく視界と進路が遮られて厄介だな 」
 爆雷が巻き起こす乱水流を自動操縦にまかせてかいくぐりながら、鈴は「音速 剛轟号海中仕様」の操縦席で唇をかむ。
「これ以上の深入りは思わぬ帰り傷を負う、か。ここは標的を変更して」
 言いかけた呼吸をはかったかのように、操縦席に新たな会敵警報が鳴り響く。
「これは、負のエネルギーフィールドか。あの老魔導師だな。ちょうどいい、あ のご老人にも前回の借りがある」
 薄く笑うと、鈴は海の藻屑と消えた「14式戦乙女号」の仇を取るべく、特製 の赤い衝角付き魚雷の発射釦を押しこんだ。

「む? あの航跡は魚雷。しかし脚が速い。通常の三倍の速度で迫ってくるわい 」
 自らの船を沈める危険な凶器の接近に気付いても、エルンスト・ハウアー の顔に狼狽の色はない。
「あの若造じゃな。資金に物を言わせた物量では勝てぬことがまだ分からんのか 。ワシが真の海の戦いというものを一から叩きこんでやる」
 説教臭い口上を垂れると、エルンストは印を結び集中に入る。ほどなく、死霊 術師の操る「幽霊船」を取り囲む禍々しい力の領域が無気味にふくれ上がり、結 界となって周囲の海を呑みこんでいった。
 結界の中に飛び込んだ赤い衝角魚雷は、圧倒的な負の力を受けてみるみるうち に腐食し、目標の遥か手前で力つきくぐもった暴発を起こした。
「ふはははは、見たか我が魔術の奥義……む?」
 ひとしきり得意げに高笑いしていたエルンストは、不意に清らかで暖かな白い 光が降り注ぎ、その光に洗われるように負の結界が解けて消えて行くのを感じた 。
「結界の中和。先日の娘じゃな」
 見れば、けたたましい排気音と共に、豪快な水しぶきをあげながら接近してく る「空気浮上艇」の姿が見て取れる。
「むぅ、あの娘の力を観察するのも一興と思っておったが、若造も同時に相手取 るとなるとちと余裕がないの。ちっと本腰を入れて相手にせねば」
 老魔術師の口元から余裕の笑みが消え、結界を保つべくさらなる集中に入る。
 ……と、にわかに「空気浮上艇」の横合いに大きな水柱が立ち、真由の船は大 きく姿勢を崩し辛うじて転覆を免れた。
 乱戦の間に小さな木造帆船が戦闘海域に接近し、真由たちの船に攻撃を仕掛け たと見て取れた。
「空気浮上艇」のハッチが開き、手持ち武器としてはぎりぎりの大きさの砲口が にゅっと突き出ると、ばすん、とくぐもった音を引いてなにやら白くてぶよぶよ した「弾丸」を発射した。どうやら対人用の非殺傷兵器らしいが、うまく狙いが 定まらず思うような効果が得られない。
 すると今度は、その木造帆船に向けて魚雷が発射され、帆船はこれを間一髪で かわす。舷側からの爆雷投下で応戦し、派手な水柱をかわした「音速剛轟号」は 今度は幽霊船にむけて魚雷を発射した。
「なにやら、四つ巴の戦いになって来たの」
 亜梨沙の力によって「中和」される結界を苦労して維持しながら、エルンスト は混迷の度を深める戦況にとまどっていた。

 さて、そんな激戦を尻目に、皇都湾上を静かに航行というか、半ば漂流する一 艘の小舟があった。
 この吹けば飛ぶような船で海に出たというか、出されたのは、フレア・マナ である。
 彼女は姉アクアの「ナナちゃん企画」とやらで呼び出され、ナナちゃんこと七 色鯨を手なずけるべく、なかば放り出されるように海に出されたのだ。全くひど い姉もいたものである。
 とはいえ、フレアに姉を恨む気持ちはない。たぶん。それに、自分としてもこ の事件に首を突っ込んでみたい気もある。そんな訳で彼女は撒き餌として大量の 小魚を買いこみ、それを撒きながら海面を漂って鯨を引き寄せる作戦に出たのだ 。
 なんとも気の長い話だが、フレアの運はわりと良い方らしい。しばらくすると 海面が大きく盛り上がり、海を割って七色にきらめく巨大な生物が姿を現わした 。
「来たね、七色鯨!」
 フレアはさっそく撒き餌を放り出し、鯨の背後に回りこもうとする。
 しかし、七色鯨はその動きを完全に読んでいたようだ。尾びれが二度、三度と 激しく海面を叩き、大きな波のうねりが起こって、木の葉のような小舟はひとた まりもなくひっくり返った。
「なんの!」
 しかしフレアには、姉アクアから貸し与えられた「潜息珠」がある。水中でも 息が詰まる事なく、女戦士は体制を立て直し鯨に立ち向かおうとした。
 しかし、その動きすらも七色鯨は読んでいたようだった。突進するアクアに逃 げる事なく、むしろますます速力を上げて、その巨大な口を大きく開いた。
「しまった!」
 フレアの視界が、一瞬一面の桃色に染まる。そして、がぼっ、と言う水音と共 に、周囲は暗闇に閉ざされた。
「見事に呑み込まれちゃったね。……ねえ、七色鯨! 君にも何か、こうして怒 る理由があるんでしょう? 僕は君を助けたいんだ。それを聞かせてよ!」
 返事の代わりに、フレアの体が強烈な水流に呑み込まれ、きりもみしながら流 されて行く。
 ぶしゅうぅぅぅぅ。
 轟音と共に、いきなり明るさが戻った。慌てて周囲を見渡すと、見事に宙に浮 いている。どうやら潮吹きで外に吐き出されたらしい。
「これは幸い!」
 フレアは体勢を立て直し、七色鯨の広い背中に着地する。鯨が怒ったように体 を震わせ、女戦士はやや平衡をくずした。
「うーん、まずはこっちの誠意を見せないと駄目か」
 今の騒ぎが狩猟者たちに気付かれたらしい。包囲網を敷いて近付いてくる漁船 の群れを見ながら、フレアは戦術の転換を決めた。
「炎帝剣・改」の刃から炎をほとばしらせ、帆を狙って焼く。鯨を護るためとは いえ、もちろん人間をどうこうしたくもない。
 七色鯨が、とまどったように動きを止めた。
「そう、僕は君の味方だよ……っと!」
 フレアは慌てて飛び退いた。一隻の船が彼女を「敵」と判断して銛を撃って来 たのだ。
 さらに鯨が動きを止めた事を幸いに、漁船は確実に包囲網を縮めて来る。
「さすがに多勢に無勢かな」
 珍しく弱音を吐きかけたその時、海面からにわかに海草が沸き出し、漁船に絡 み付いて動きを封じた。
「優しい鯨さんをいじめたら、駄目なんですぅ」
「しゃぼんだま」で空気の泡に入り水中を潜って来たリュリュミアが、例によっ てのんびりした口調で狩猟者達をたしなめた。
「鯨さんも、お船に向かって行っちゃ駄目ですよぉ」
 そう言うと、リュリュミアは天を仰ぎ、歌を歌いはじめた。
 通常の人間の言葉ではない。しかし、不思議と聞く者の心に染み入る、不思議 な歌声。
 なおも人間達を脅しつけるかのように回遊していた七色鯨の動きが次第に鈍り 、ついに止まった。
 そして、その鼻先から、リュリュミアに唱和するように不思議な音色が流れは じめる。
 植物少女の歌と、鯨の歌。二つの歌は母なる大地と海とをそれぞれに歌い上げ 、やがてみごとに解け合ってひとつの唱和となって行った。


七色鯨を巡って

「この! こう相手が多くちゃ、狙いが定まらないよ!」
 もう何発撃ったか。「とりもちランチャー」が空しく狙いを外し、三人組の帆 船の船体にへばりついたのを見て、トリスティアはいまいましげに舌打ちした。
 なにしろ海の上だから、相手も、そして自分の足もとも波に揺れる。加えてお 互い攻撃をかわそうと動き回っているわけだから、なかなか地上で止まっている 的を撃つようには行かなかった。
 加えて、幽霊船の存在がある。
 牽制で数発撃ってみたのだが、どれも謎の結界に阻まれ、弾着の前にみるみる うちにひからび、腐敗して持ち前の粘着力を失ってしまった。
 ならば「水中すくりゅーロケット」で接近戦を挑もうかとも思ったが、機械が 、そしてトリスティア自身が同じ目にあってはたまらない。悔しいがここは、亜 梨沙と彼女の持つ石の力にまかせた方が良さそうだ。
「ねえ、真由。考えたんだけど」
「なに?! 今忙しいんだけど!」
 攻撃をかわすため、忙しく右に左に舵を切りながら、真由が怒鳴った。
「『音速剛轟号』とは、ボクたち直接は戦ってないよね」
「そうだけど?」
 その言葉どおり、この混戦でも、「空気浮上艇」と「音速剛轟号」との間には 直接の戦いはなかった。流れ弾がかすめることは何度かあったが。
「向こうも三人組と幽霊船とを同時に相手してる。一対三より二対二だよ。ここ はひとつ、組んでみたら?」
「え〜っ、でも、山分けにすると賞金も減っちゃうし」
 がめつい不満を口にする真由を、トリスティアはなだめるように説得する。
「この鯨狩りを受ける時だって、『サーペント卿の依頼は実入りがいいけどなん か怪しげ』て言ってたじゃない。確実にお金を稼げる手を考えようよ。聞けば武 神鈴も借金背負ってるって言うし」
 トリスティアは手持ちの残弾を真由に見せた。かなり心もとなくなってしまっ ている。
「う〜ん、分かった。これで向こうと話してみて。周波数はこないだの自動車競 走の時に合わせてあるから」
 弾切れが近いという現実の問題を突き付けられてようやく納得したのか、真由 は通信機を投げてよこした。彼女自身は操縦から手が離せないようだ。
「了解。……アロー、アロー、『音速剛轟号』、こちら立花真由の『空気浮上式 高速艇』」
 短く返事をして、トリスティアは通信機に取りついた。
<……何の用だ?>
 ほどなく、やや雑音まじりの武神鈴の声が返ってくる。
「利害は一致すると思うんだ。ここはひとつ、組まない?」
 そしてトリスティアは、真由に言ったのとほぼ同じ言葉で武神鈴を説得した。
<確実に賞金を手に入れる算段、か。確かに、このまま泥沼の戦いを続けていて もらちが空かないな>
 通信が切れるなり、「音速剛轟号」の動きが変わった。「空気浮上艇」と連係 し、三人組の帆船とエルンストの幽霊船とを挟み撃ちにするような位置に回りこ もうとする。
 自分たちの考えることは、相手も考える。三人組と幽霊船もお互い連係するこ とで話がまとまったのか、真由たちと鈴の動きを阻むように回りこもうとする。
 しかし、その動きは真由たちほど連携が取れていない。急造ペアなのはどちら も変わらないが、エルンストの負の力の結界は無差別に効いてしまう。あまり近 付き過ぎると、三人組と帆船まで腐れひからびてしまうのだ。
 そこに差が生じた。
「音速剛轟号」の魚雷が三人組の帆船をしたたかに捕らえ、亜梨沙の力で負の結 界が中和した隙にトリスティアの「流星キック」が飛んで、もともと腐っている 幽霊船の船体をみごとなまでに真っ二つにへし折った。
「むう、ここまでか」
 沈み行く「幽霊船」の甲板上に仁王立ちになって、エルンストは天を仰ぐ。
「かくなる上は船を運命を共にしよう。それが潔い男の引き際と言うものじゃ」
 崩壊する「幽霊船」から脱出するそぶりも見せず、仁王立ちになったまま、エ ルンストは皇都湾の海に呑みこまれて行った……。
 なんてね。
 なんでもこの死霊魔術師、「もう死んでいる」から息をする必要もないそうな 。便利な体だこと。なりたいとも思わないが。

 厄介な敵を撃破した真由たちとトリスティア、武神鈴は、時々遠くに吹き上が る潮を目印に七色鯨に迫った。  だが、その前に小舟に乗った女戦士が立ちはだかる。
「悪いけど、七色鯨を狩らせるわけには行かないんだ。どうしてもと言うんなら 、僕を倒して行くんだね」  炎を吹く剣を大上段に構え、フレアが狩人たちを睨み付ける。
「む、さてはあなたも鯨可愛い東米人かぶれね! あんなの所詮蛋白源よ! ま してや沿岸漁民に害をなすとあっては放置できない! それを邪魔すると言うな ら、あたしも容赦しないわ!」
 真由が例によって根拠不明の理屈をわめきたて、「空気浮上艇」と「音速剛轟 号」とが攻撃体勢に入った。
「だから、鯨にだって事情が」
「待ってぇ!」
「とりもちランチャー」の砲口をフレアに向けたトリスティアを制したのは、珍 しく思いつめた顔をした亜梨沙だった。
「その人の言うとおりぃ、鯨さんにも何か理由があると思うのぉ。要するにぃ、 鯨さんが人間の船を襲わなくなれば良いんでしょうぅ?」
「だからどうしろって? 鯨に言葉は通じないわよ、アリサ」
 やや刺のある真由を前に、亜梨沙は答えにつまった。さすがの彼女も、鯨と意 志を通じる力は持ち合わせていない。
「それはぁ、わたしから説明しますぅ」
 一触即発の場にやたらのんびりとした風情で現れたのは、「しゃぼんだま」を 船替わりに水上に浮かんだリュリュミアだった。
 驚いたことに、七色鯨が噂からはにわかに信じられない大人しさで、彼女の後 をついて来ている。リュリュミアが人間には聞き取れない「声」で一声鳴くと、 七色鯨もそれに答えるように低く、聞く者の腹に響く泣き声を返した。
「鯨さんにはぁ、子供さんがいるんですぅ。この間ぁ、その子供さんが人間に襲 われてぇ、ひどい怪我をしてぇ。それでぇ、鯨さんは怒ってぇ、人間の船を襲う ようになったんですってぇ」
「……あなた、鯨の言葉が分かるの?」
 呆然と口を開いて指差す真由に対して、リュリュミアは屈託なく笑った。
「鯨さんと歌を歌えないかなぁ、ってやってみたらぁ、何となくですぅ」
「それでぇ、その子供さんはまだ生きてるのぉ?」
 亜梨沙の問いに、さすがのリュリュミアもやや顔を曇らせた。
「鯨さんがこっちに来る前はぁ、まだ生きていたそうですぅ。でもぉ、このまま じゃぁ、あと何日もつかぁ」
「それならぁ、アリサを連れて行ってくれないぃ? 何とかできると思うのぉ」
 亜梨沙は碧い瞳に静かな決意を秘めて、胸元の意志をそっと握りしめた。
「うん、伝えてみますぅ」
 リュリュミアが言葉ならぬ「声」で鯨に語りかけると、ほどなく七色鯨は一声 鳴いて、皇都湾外に向かって泳ぎだした。
「『案内する』ですってぇ」
 リュリュミアの言葉を聞くまでもなく、七色鯨の意志は明らかだ。
「マユぅ、お願いぃ」
 祈るような亜梨沙に、真由は言葉では答えず、むっつりと黙りこんだまま、進 路を皇都湾外に向けた。

 人目につかぬ岩壁の影に、小さな鯨が傷ついた体を横たえていた。
 潮に洗われた傷口から新たな血が赤く流れ出し、荒い息は一息ごとに力を失い 、か細くなって行く。
 瀕死の子供鯨が身を隠す岸辺に、人間達は七色鯨に先導され、静かに上陸した 。
 傷ついた子供鯨の姿を見るなり、亜梨沙は「空気浮上艇」から飛び降り駆けよ る。
「どうですぅ?」
 続いて上陸したリュリュミアが、心配そうな面ざしで後ろからのぞきこんだ。
「だいぶひどい怪我だけどぉ……、うん、なんとか治せると思うぅ」
 亜梨沙はひとつうなずき、右手を子供鯨の傷口にあて、余った左手は胸もとの 石を握りしめて、祈るように目を閉じた。
 たちまち、あたたかな白い光があたりに満ち、それは細い手を伝わって子供鯨 の体を包みこむ。
 亜梨沙がさらに深く意識を集中したようだ。清らかな光がさらに強まり、周り の者たちはとても目を開けていられず目蓋を手で覆った。
 その掌さえも通り抜けるほどに、光は強さを増す。けれどそれでいて、不思議 なほどまぶしさや熱さは感じなかった。ただ、自分までもこの光の余波を受けて 、疲れや傷や病が洗われて行くような感覚に陥る。
 やがて光が次第に弱まり、そして消えた。
 一同はおそるおそる目を開けた。まぶしい光を受けて、にわかに視力が戻らな い。
 そして、何度かめを瞬かせて、ようやく回復した視界の先では。
 子供鯨の傷はすっかり消え失せ、甘えるように亜梨沙に頭をすり付けていた。
「すごい……」
 誰ともなく、声がもれる。
 ざばん、と水音がして七色鯨がわが子のもとに這いより、ひとしきり親子で鼻 をすり付けあうと、低く、それでいて優しげな声で一声鳴いた。
「『ありがとう。あなた達の感謝の印に、もう人間を襲うことはしない』ですっ てぇ」
 リュリュミアが鯨の言葉を「通訳」する。
「えーと、このまま遠くに行かれてもちょっと困るんだよね。できれば時々でも 、皇都湾に戻って来てほしい。もちろん、狩るなんてことはさせないから」
 ちょっとばつが悪そうにフレアが申し出る。リュリュミアが歌うような声でそ れを伝え、七色鯨は一声鳴くと共にわずかにうなずいたようだった。
 さぱぁん、と大きな波が立った。
 七色鯨が回復したわが子を連れ、海に戻ったのだ。しばらく人間達の周囲を回 っていたかと思うと、ひときわ高く潮を吹き上げ、そしてゆっくりと夕日に向か って泳ぎ去って行った。
「……行っちゃったね」
 一抹の寂しさをこめて、フレアがぽつりとつぶやく。
「戻って来てくれるかな」
「きっと戻って来ますよぉ」
 リュリュミアがいつものほんわか笑顔で、二頭の鯨が去った海を見つめていた 。
「治って、よかったぁ」
 さすがに力を使い果たしたのか、ややふらついた足取りながら、亜梨沙もにっ こりと笑った。
 しかし。
「……ちょっと」
 どこか深いところに溜め込んでいたものを吐き出すような、ただならぬ声音が 響いた。
 見れば、真由が異様な迫力をたたえて、亜梨沙を見つめている。いや、睨み付 けている。
「マユぅ?」
 親友のただならぬ様子に、亜梨沙は思わず一歩退いた。
「その力、むやみに使うなって、この間言ったでしょ?」
 意識して抑えた口調。だがそれだけに、押さえこんだ感情の大きさが見て取れ る。
「でもぉ、今回は鯨さんも人を襲わなくなったしぃ」
「『でも』じゃないわよ!」
 ばん、と「空気浮上艇」の船体を叩く音が響き、その音にこめられた迫力に、 周りの人間も雷が落ちたようにびくりと震えた。
「結局鯨も逃がしちゃって! 賞金はどうするのよ! この船の制作費だって、 ただじゃないのよ!」
 とうとう堰が切れたようだ。発明少女の口をついて、怒濤のように言葉の濁流 が流れ出す。
「ちょっと真由、言い過ぎだよ」
 なだめようとしたトリスティアを乱暴に振り払い、真由は力の限り叫んだ。
「だいたい何? 毎回毎回、得体の知れない力でなんでも解決しちゃって! そ ういうの見てると、地道に努力してる普通の人間はやる気なくすのよ! ちょっ と妙な力持ってるからって、いい気になってんじゃないわよ! あんた一体何者 なのよ、この親なし娘!」
 −−沈黙が、あたりに落ちた。
 真由は自分の口から飛び出した言葉に、呆然となって亜梨沙を見ている。
 亜梨沙は親友から浴びせられた感情の爆発に、硬直して真由を見つめていた。
 永遠にも思えた一瞬の後。
 碧い瞳から、つ、とひとしずくの涙が流れ落ちた。
「あ……」
 かすかな声を上げたのはどちらだったか。
 見る見るうちに涙は滝となって、亜梨沙のほおを濡らす。
 亜梨沙は目を伏せ、身をひるがえし−−そして、岩壁の向こうへと駆けて行っ た。
「アリサ!」
 真由は手を伸ばし、一歩踏み出して、そして呆然と立ち尽くす。
 あたしには、あの子は追えない。追う資格がない。
 そのことは、彼女自身が誰よりもよく分かっていた。

 亜梨沙は岩肌を抜け、林の中を駆けていた。
 固く尖った岩に、鋭い気の枝や葉に、手足が傷つけられ血がにじむが、体の痛 みなどどれほどでもなかった。  いったい自分は、どこで間違ってしまったのだろう。
 よかれと思って、マユの助けになると思って、力を使っていたのに、それがい つの間にか姉妹とも慕う親友を傷付け、不満を持たせていたなんて。
“妙な力持ってるからって、いい気になるんじゃないわよ!”
 真由の言葉が、頭の中で再び響く。
(アリサ……いい気になってた?)
 亜梨沙は自らに問いかける。けれど答えは返ってこない。いい気になるとか悪 い気になるとか、そんなことを意識したことは、今まで彼女にはなかった。意識 していないと言えば、この「力」だって別に意識して使っているわけじゃない。
“あんた一体何者なのよ!”
 真由の声が再び胸をずきりと刺し、亜梨沙は木立ちの中に立ち尽くした。
(アリサは……いったいだれなの? だれの子なの?)
 答えは返ってこない。彼女の記憶に、親や家族の姿はない。からっぽの記憶を 見つめながら、亜梨沙は声をからして泣きわめいた。
 不意に、梢ががさりと揺れ、亜梨沙ははっと振り返った。
「マユぅ?」
 思わず口をついて出た言葉を、亜梨沙は自ら否定する。真由が来てくれるわけ がない。あれほど自分を嫌っていたというのに。もし来てくれたって、会わせる 顔がない。
「だれ……?」
 亜梨沙の再度の問いかけに、答えは返ってこなかった。
 前方からは。
 不意に背後から手が伸び、少女の口元に湿った布を押し当てる。つん、と鼻に つく薬品の匂いが亜梨沙の鼻と口に侵入し、行き場を失った少女の体は力を失っ て崩れ落ちた。
「目標、確保」
 亜梨沙を眠らせた影が、感情を殺した声で告げる。
 それに答えて、あちこちの樹木の陰から、合わせて四人の襲撃者が現れ、眠り こんだ少女を取り囲んだ。 「大事な『片割れ』だ。くれぐれも傷つけないように」
 冷たい女の声が響くと、合わせて五つの陰は互いに連係し、亜梨沙の体を布で 覆い隠し、協力して持ち上げて、静かにその場を立ち去って行った、
 そしてその後には、なにも残らなかった。


逃げ出した少女

「う〜ん、ナナちゃんブームもぉ、だいぶ下火になっちゃいましたねぇ」
 のどかなお台場湾岸の一日。例によって「皇都湾のナナちゃん」こと七色鯨の 土産を売りながら、アクアはひとつため息をついた。
 妹フレアの助けもあって、ナナちゃんは子供共々(八色の体色を持つのでハチ と命名)ときおり皇都湾岸を訪れるようになり、その荘厳ながらもほほえましい 姿は、皇都都民の癒しとしてしばらくは大いに受けた。
 しかし、火付きが早ければ飽きるのも早いのが大和臣民の性分である。
 やがて「ナナちゃん」の姿が皇都湾に定着すると共に、逆に観衆はしだいに減 り、一方で放置ごみやら周辺騒音やらの問題も現れてきた。
 最近では「ナナちゃんを静かに見守る会」なんてものも結成され、「自然の生 き物を見せ物にするのは止めよう」と崇高なる主張を繰り広げている。
 そんなわけで、当初爆発的な売上を誇ったナナちゃん土産も、足を運ぶのが常 連の客だけになると共にさっぱり売れなくなった。これ以上在庫をだぶつかせる 前に、生産を取り止めるべきだろう。
「季節も変わり目ですねぇ」
 すっかり見慣れたナナちゃん親子を見ているのかいないのか、アクアは再びた め息をついた。

 亜梨沙が帰ってこない。
 はじめのうちはそれでも強気にふるまっていた真由も、二日、三日、そして一 週間が経つころには、すっかりふさぎこんで研究所から一歩も出なくなってしま った。
「真由、亜梨沙を探しに行こう。そして謝ろうよ」
 トリスティアの励ましの言葉にも、発明少女はだだっ子のように首を振る。
「だめよ、あたしにそんな資格はない。あなたも聞いたでしょ? きれいごと言 ってたって、あれがあたしの本心だったんだ。あたし、あの子をうらやんで、馬 鹿にして、気持ち悪がってた……」
「それはさ、自分にない力を持ってたら、誰だってうらやむし、気持ち悪くも思 うよ。真由にだって、誰にも真似できない発明の才能があるじゃない」
「なによぉ、こんなもの」
 真由は力なくレンチを放った。整備ほったらかしで赤錆が浮きはじめている「 空気浮上艇」の船体にはねかえり、かあんと空しい音を響かせる。
「こんな心のない道具をいくら造ったって、人の気持ちが分からなきゃなんにも ならないわよ。あたし、やっぱり発明なんて向いてないんだ。周りの人の気持ち なんか考えずに、自分だけ満足してた……」
 トリスティアは大きくため息をつき、首を振った。これは相当重症だ。そう簡 単には治りそうにない。
 玄関と連動している呼び鈴がなった。
「ほら、誰か来たよ。もしかしたら亜梨沙が帰って来たのかも」
 トリスティアは真由をうながすが、落ちこんだ少女は一向に反応しない。トリ スティアはしかたなく、自ら玄関に向かった。ここ数日は毎度こうだ。
 今回も、「もしかしたら」の期待をこめて扉を開ける。けれど門の前に立って いたのは、期待とはかけ離れた顔ぶれだった。
「なんだ、またあなたたちか。で、例によって借金の取り立て?」
「ま、それが仕事だからね」
 答えるおみつの声にも、なんだかいつもの勢いがなかった。
 先日の七色鯨騒動では、結局捕獲には至らなかったものの、ともかく住民への 脅威を解決したとのことでお上から参百圓ほどの賞金が出た。しかしそれも事件 解決に貢献した人数で山分けしたら、さほどの額にはならなかった。「空気浮上 艇」の制作費を差し引けば、真由は完全な赤字だ。
「お祖父さんの遺産でもなんでも、好きに持って行ったら?」
 そんな事情もあるので、トリスティアはほとんど投げやりに言い放った。ある いはそれくらいの刺激があった方が、真由の目がさめるかも知れない。
「うーん、でもねぇ、こっちも老人の布団をはぐような真似は気が引けるってか 」
 おみつは珍しく、歯切れの悪い口調で頭をかいた。
「ぶっちゃけ、あの小娘に落ちこまれちゃ、あたしらもなんだが気が抜けちまう んだよ。毎度毎度噛みついて来るのが、今となっちゃ楽しかった、ってか」
 借金取りの女はぐれ侍は、自分自身の言葉に照れたように煙管をひと吹きした 。
「ま、一応あたしらが来たって伝えといてよ。それであの小娘の元気が戻るんな ら、こっちも本望ってね」
 それだけ言うと、おみつはそそくさと身をひるがえし、有造と無造の凸凹組を 促して立ち去って行った。
「……誰もかれも、元気がないなあ」
 かくいうトリスティアもやや肩を落として、ともかく真由に来客を伝えるべく 戻りかける。
 すると、その背後にそっと立つ気配があった。
(亜梨沙?)
 ここ三月ほど親しんだ気配とよく似ている。トリスティアの胸に期待がふくら み、勢いよく振り返った。
 そして彼女は、強い日ざしの下で待ち望んでいた姿を見た。
 ……いや。
 確かに、背格好も波打つ髪の長さもそっくりだ。けれども今目の前に現れた少 女は、髪の色は銀色で、目は燃えるような紅をしている。亜梨沙は金色の髪で、 瞳は深い碧だった。
「キミは、誰?」
 とっさに他人とも思えず、トリスティアは間の抜けた問いを発した。
 亜梨沙にそっくりな少女は何も答えず、きれいにトリスティアを無視して、一 目散に研究所の中に駆けこむ。着ているものは随分と装飾過剰な洋服だが、ここ まで身だしなみに気を使わず来たのかずいぶんとほこりにまみれていた。
 正体不明の少女は初めて足を踏み入れる、発明品やらその部品やら失敗作やら が混沌と積み重なる研究所内を迷う様子もなく一気に駆け抜け、奥の作業場にう ずくまっている真由に、ほとんど飛びかかるように抱きついた。
 真由がその衝撃で鈍く顔を上げ、亜梨沙にそっくりな少女の顔をしばし見つめ る。
「アリサ? ……違う、そんなわけないかぁ」
「追われてるの。助けて」
 亜梨沙にそっくりな少女が、亜梨沙にそっくりな声で訴える。その言葉を、よ うやく追い付いたトリスティアが聞きとがめる。
「ちょっと、追われてるって、誰に?」
 静かに肩に手を置こうとしたが、少女はおびえたように震えて伸ばされた手か ら逃れた。子犬のように震えながら、ただ真由にしがみついている。
「アリサじゃない、あなた、誰?」
 助けを求める少女を拒むでもなく、突き放すでもなく、ただ無気力に尋ねた真 由に、少女はか細い声で一言だけ答えた。
「……アリス」
 何を恐れているのか、震える少女の胸に、血のように赤く宝石がきらめいてい た。

「養女、ですか」
 横羽外国人居留地。問い返すクレハに、館の主人であるサーペントは珈琲をく ゆらせながら、鷹揚にうなずいた。
「そんなお話は、今までうかがっておりませんでしたが」
「いずれ正式に女召として働いてもらう時に、伝えようと考えていたのだが」
 反問するミズキにも動ぜず、西欧軍人は言葉を継いだ。
「しかし先日、ふとした行き違いで喧嘩になってしまってね。そのまま、家から 飛び出してしまった」
 サーペントは一口珈琲をすすり、シャモン姉妹に語りかけた。
「あの娘が外で妙な事を覚えたり、滅多な目に遭ったりしたらと思うと夜も眠れ ない。かといって顔見知りの女召では、気付かれて逃げられてしまう。その点、 君たちの存在は、失礼だが実に都合がいい。一刻も早く、養娘を連れ戻して来て 欲しい」
「お気持ちは分かりますが、心配のしすぎではないでしょうか? 娘さんも心細 くなれば、自然に戻ってくると思います」
 クレハの追及に、サーペントは珍しく眉間に深いしわを寄せ、首を振った。
「傲慢と思われるだろうが、養娘を自らの思いどおりに育ててみたいというのは 、男の夢なのだよ。この国にもそんな古典があっただろう。確か『原氏物語』と か言ったかね」
 シャモン姉妹は思わず顔を見合わせた。この西欧軍人の性癖は、いよいよもっ てどうしようもないかも知れない。
「けれど、わたくし達には亜梨沙さんの力を調べる仕事があるのですが」
 ミズキの問いにも、サーペントはやはり厳しい顔で首を振った。
「それは後にしてくれたまえ。今は養娘を連れ戻すことが最優先だ。君たち以外 にこれを頼める人間はいない」
 サーペントは一方的に告げると、懐から写真を取り出し二人に見せた。
「名前は『アリス』と言う。これが写真だ」
 二人は、とくにクレハは、目の前に突き付けられたものに声を失い、ただ凝視 していた。
 白黒写真に着彩された少女の姿は、髪が銀色、瞳が紅であることを除けば、亜 梨沙にそっくりだった。
 ……やがて二人が去り、静かになった部屋で、西欧軍人の富豪はひとり小さく つぶやく。
「『素材』も結局手に入らず、ようやく『片割れ』を手に入れたと思えば可愛い 娘には逃げられ……。うまく行かないものだな、世の中は」
 珈琲の湯気がかすかに揺れ、サーペントの唇に薄い笑みが浮かんだ。
「しかし、だからこそ世の中は面白い。君もそうは思わないかね?」
 鋭い視線の先では、少女が悲しい夢に涙を流しながら、深い眠りについていた 。

以下次回


【今回登場のNPC】(時々嘘情報含む)

立花真由(たちばな・まゆ)

 フラストレーション大爆発。大航海のち大後悔。

亜梨沙(アリサ)

 白いようなやっぱり黒いような。しばらくお休み。

おみつ・有造(うぞう)・無造(むぞう)

 三本束ねても影が薄い。このまま消滅の危機か。

サーペント

 蔵書も圧倒的な御仁(色々な意味で)。

女召(メイド)

 サーペント卿お抱えの女召。赤毛娘は小説家の副業もしている(嘘)。

七色鯨

 皇都湾のナナちゃん。歌に賭けたり恋に生きたり(嘘)。

「アリス」

 お手軽色替えキャラ。代行ヒロイン。


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